おたくはどちら

つれづれ

幕間 トリプレット

『復元に成功した最も新しいファイルです』


『読みますか?』


……



* * *



 あなたがこの手紙を読んでいるということは、あたしか、あるいは彼女に興味があるってことなのかな。もしくは偶然これを見つけてくれたのかもしれない。誰かに見せるつもりはなかったんだけど、見知らぬ人がこれを読んでくれてるって思うと、どきどきする。あたしがあたしである唯一と言っていい記録を、出会うはずもないあなたが読んでくれるんだ。あたしは手紙を書くことがどういうものか知っているけど、こうやって書くのは初めてなの。連続した時間軸に縛られずにお喋りできるの、不思議だと思わない?
 脈絡のない話だったらごめんなさい。でも、人よりも少しだけ複雑な自我を持ってるあたしにとって今回は特別なんだ。あなたがこれをおもしろいと思ってくれるか、それとも不快に思ってテキストファイルを閉じてしまうか、ずっと考えながら書いてる。今からするのは、あたしがあたしなのか、それとも2人の彼女なのか、あるいは全く別のものなのかと考える、そんなお話。あなたが最初のひとりになってくれたことを幸運に思うし、あなたが最後のひとりになるかもしれないから、できれば最後まで読んでくれると嬉しい。コーヒーでも飲みながら肩肘張らずにね。


 はじまりから行こう。
 倫理のブレーキをかけ忘れたせいで人類は滅んだ。そこはゾンビや生物兵器が自由気ままに地上を闊歩する、パニックホラーの後日談みたいな場所だった(きっとあなたも、そういう映画や小説や漫画を読んだことがあるんじゃないかな)。そこであたしは揺りかごも哺乳瓶もすっ飛ばして、アンデッドとして目覚めた。
 あーうーよだれを垂らすだけのものじゃなく、きちんと人間らしく振る舞える個体だった。見ず知らずの人にこうやって手紙を書けるくらいにはね。他に人間と呼べるのは一緒に目覚めた女の子(妹ということになっている)と、2人を作ったお父さんくらいだ。お父さんはほどなく落盤に巻き込まれて地中に埋まったから、あたしと妹は生きるために旅を始めた。
 ゾンビが生きるためってのもなんだか可笑しいけれど、律儀に動かない死体のままでいるほどあたしたちはお行儀がよくなかった。死んでいても死ぬのは怖い。


 妹は絵に描いたようなお姫様だ。カバンをいつも大事そうに抱えてて、怖いことがあるとすぐにあたしの後ろに隠れる。どことなく小動物を思わせる。だからあたしはありとあらゆる捕食者に鉛の弾丸を撃ちまくった。女の子は甘いミルクの匂いがするって言うけれど、あたしの場合は腐臭と硝煙で半々。熊の腐った臓物を頭から被ったこともある!あれはものすごく臭かった。……それはさておき、姉の贔屓目を差し引いても、妹は甘くて可愛い女の子だった。守りたくなる。
 けど、あたしたち姉妹が放浪した世界はミルクみたいに甘くなかった。生きるために敵を殺し、幾度も殺されかけた。世界が死に絶えたなんてのは大ウソだ。
 弱肉強食のルールが支配する、なお技術を身につけているだけタチの悪い命のやり取りの世界。
 戦いの連続だった。爆弾を腹に巻き付けた犬に脚を吹っ飛ばされたり、人間の何倍も大きい蜘蛛たちと一晩中森で戦ったりしたこともあった。脚が元に戻らなくて直接小型戦車の履帯クローラを取り付けた。普通の人間なら外傷で死ぬよりも先に気が狂う。
 ただ、幸か不幸かゾンビなのでそもそも前提からしてまともじゃないし、何より妹がいた。妹はあたしに唯一残された平穏な日常で、あたしの命よりも大事なものだった。姉妹の繋がりを担保するものは互いを姉と妹と呼ぶだけのものだったけれど、あたしはそれで良かった。良かったのに。


 唐突に終わりは告げられた。緑に溢れ、鳥がさえずり、人々が行き交う平和な世界に変わっている。あなたの日常はあたしの非日常。呆然は焦りと混乱に分解される。いつも隣にいるはずの妹はいない。目覚めるはずのない悪夢こそ、あたしの居場所だったのに。
 ああ、こんな素晴らしき日々はいらないんだ!
 そうやってあたしが片手に埋め込まれた9mm砲を手当たり次第にぶっ放そうとしたところ、1人の女性がそれを止めにかかった。
 あなたは肌色って知ってる?ペールオレンジのこと。黄色人種のスタンダードな肌の色だから肌色って言うんだけど、あたしはその日初めて肌色の意味を理解した。なんせ目の前にいるのは生きた血が通っている、白衣が似合う女の人だったからだ。人間は生きるものってことを知ってはいても、生きた人間を見るのは初めてだった(あたしはそのショックで固まってしまって、引き金を引かなかった。おかげで死体は増えなかったよ)。
 女性は空間カラマミツルと名乗って、あたしを保護しにきたと告げた。


 いかにも研究者然とした風貌を裏切ることなく、ミツルさんはありとあらゆることを教えてくれた人だ。この世界はあたしたちの場所(ネクロニカと彼女は呼んでいる)よりずっと前の時代ってこと。あたしには特別な力サイケデリックが備わっていること。それをこの時代のお父さんが欲しがっていること。そのためにあたしが呼び出されたこと。焼きおにぎりがおいしいこと。エトセトラ。妹が心配で仕方なかったけれど、結局できることは何もなかったのでミツルさんに従うことにした。
 従うことにした、と簡単に書いたはいいけど心はぐちゃぐちゃだったよ。何度も胃の中のものをひっくり返してぶちまけた。まともな食事すらしたことない人間が、統合失調とストレス性麻痺と痙攣をまるごとまとめて味わった。人間は生きるために食べるけれど、あたしは吐くために食事をした。あたしは人間じゃないんだなぁとはっきり納得した。
 ミツルさんは胃液(に見える粘菌)をげぼげぼ吐いたあたしの背中をさすりながら、アロスタティック負荷を自慢げに説明していた。変人だ。自我のベースが人だから、まがいものであっても人間らしい反応を返すらしい。私は何だか笑ってしまって、どろどろが気管に入ってまた吐いた。使われることのない器官でも、詰まるのは気持ち悪い。


 ミツルさんは一般的な倫理観が欠如している。むしろ倫理観を知った上で踏み抜いているという表現が正しい。
 あたしの知識に肉付けしたのは間違いなくミツルさんだし、彼女も教えることを楽しんでいるようだった。あたしも新しいことを学ぶのは好きだったし、倫理観のあるなしと人間性のあるなしは必ずしも一致しないのだなぁ、と思った。ゾンビのあたしが言っているのがいちばん面白いかもしれないけどね。中身がどうであれ、少なくとも見かけはそうだった。
 たまに、お父さんによく似た男性が来た。その人はお父さん自身で、あたしがここに来た理由でもあるらしい。彼は娘を見ているように振る舞っていて、だけど瞳に映していない。ここでも世間一般的な父親像とはズレがあって、どちらかと言えば製作者だろう。ミツルさんの方がよっぽど「親」だった、と思う。現代のヴィクター・フランケンシュタイン博士は一体なにを見ていたのか、それは今でもわからない。
 研究所代わりにしていた廃病院でミツルさんの研究に付き合ったり、おしゃべりしたり、そうでないときは考え事をして過ごした。戦いのない時間の流れはゆるやかだ。ミツルさんは音楽を再生できるレコードを持ち込んでいたので(趣味らしい)、それを聴くこともあった。廃病院で蓄音機に耳を澄ませるゾンビの日常は半年くらい続いた(ミツルさんもあたしも日付の概念には無頓着だった)。
 そんなある日。机にチンした冷凍食品を並べながら、ミツルさんはあたしを呼んだ。あの人はどんな話題でも教師の授業のように振る舞う。
「今日の夜から、しばらく君を眠らせる」
「ずいぶん急ですね。どうして?」
「君の調整が完了したし研究もあらかた終わった。これ以上外部環境に晒すのは好ましくない。ものというものは不便で、継続的にメンテナンスしないとどんどん劣化していくからね。それを止めるのに有効な手段が保存で、君にとっては薬物を利用した長期睡眠だ」
 ふうん、と気の抜けた返事を返しながら、視点を皿の上に移す。ピザ。ミートローフ。三色ベジタブル。この廃病院の中で唯一鮮やかな、赤や緑や黄色で彩られた食卓だった。あたしはひとつお願いがあるんですけど、と切り出した。
「あたしには妹がいるって話、しましたよね。もしあの子がこっちに来たら気にかけてもらえませんか」
「ふむ。いいよ」
「即答ですね?ありがとうございます」
「君の研究協力に対して報酬を支払っていないからね。金銭が正当な報酬たりえないなら他のもので代替する」
 チキンスープをスプーンで掬いながら、彼女はいつも通りのニヒルな笑顔を浮かべる。その日は、いつもよりも料理の品数が多い気がしたし、気のせいじゃないと思う。あたしは眠った。


 眠るとき、あなたは夢を見る?他の人に聞いたことがないけど、一般的にはそこそこの頻度で起こるものらしい。あたしが夢を見たのはその時が最初で最後だった。夢の中には知らない5人の男女が出てきた。4人の男性と1人の女性。長い夢だった気もする。
 ただ、夢の中で起こったことといえば、ひょろっとした感じの眼鏡の男の子があたしに向かってライフルの引き金を引いただけだ。たったそれだけ。撃たれる痛みもなにもなく、銃弾はあたしの頭蓋と前頭葉を貫通して、そのまま夢ごと飛び去った。ばきゅーん、なんて文字に起こせるほどすっとんきょうな効果音付きであたしの自我は壊れた。
 今この手紙を書いている「あたし」が明確に目覚めたのは、女性らしさでいっぱいのワンルームだった。ベッドから飛び起きて、辺りを見渡す。ベッド?冷たい機器類に繋がれて眠っていたのでは?羽毛布団は「冷たい機器類」には入らない。待て待て待て、そんな分類は後回しだ、と心の中の冷静なあたしは状況確認に務める。
 ベッドの傍に置かれた写真立てが目に入った。母親と父親、そしてその娘らしき家族写真。海を模した青いフォトフレームの中、記念日に撮ったのだろうか、スーツ姿の娘はにっこりと笑っている。知らない人なのにあたしの顔とそっくりだ。
 心臓の動きが早くなる。いや、違う、これこそが最大の違和感だ。動きの早くなるような心臓・・・・・・・・・・・・がどうしてあたしにある?体温が高まる。汗が滲む。息が荒い。その全てが生きている人間そのもの。視界がぐらついて部屋が回った。ぐるんぐるんぐるん。部屋は回るはずなくて、おかしいのはあたしだけってこともわかってる。左手には奇妙なアザが浮かび上がっていた。


 1週間を状況確認に費やして、わかったこと。あたしが目覚めた場所はある女性の部屋で、あたしは何故かその女性の身体を乗っ取ってしまっているということ。死体が動く世界なのだからそういうこともあるのかもしれない(いや、ないでしょ)。実際のところ現実を有り体に書くならそうなってしまう。
 彼女あたしの名前は朱夏シュカノシユ。都内の国立大学に通う大学3年生だ。几帳面な性格なのか入学のための資料や個人情報、取扱説明書に至るまでを丁寧にファイリングしていて、あたしはそれを漁って彼女についての情報を得た。親はいない。写真に映っていた親らしき人物は保護施設の人らしい。施設に迷惑をかけたくないと、ほぼ独り立ち状態にあるようだ(これはトークアプリの会話履歴からわかった。スマートフォンはパスワードがわからなくても、指紋認証でロックを外してくれる)。
 趣味はギター、部屋の隅に置いてある。料理は得意ではないが今年から挑戦中。ジャンクフードが苦手。小柄だが愛嬌があり、友人は多い方(だと思う)。彼氏はいない。あまり物を持たないのか本棚はすかすかで、大学の教科書やギターの教本くらい。今は長期休み。大学に入ってから髪をピンクに染めた。外に出る時はサイドテール。視力は両方とも1.5。シャンプーの香りはかなり甘い。顔は、元のあたしに瓜二つだ。
 ミツルさん曰く、ネクロニカのゾンビは死体を粘菌で補強して、自我をインストールすることで動くらしい。人間の自我を不都合なく動かすため、容れ物も基本的に人間の死体だ。必然、あたしのベースになった死体にも生きていた時代があるはずで、それこそが朱夏野シユではないのか?と考えた。顔が双子レベルで似ている説明もつくし、あたしが別の人間を乗っ取ったと思っていても身体そのものは同じなのだ。想像はいくらでも働かせられるけれど、あたしには答え合わせの方法がなかった。だからまず、大学に休学の申請をしてから(シユさんの人生を全て壊す度胸はあたしになかったの)、正解が分かりそうなあの人を探すことにした。
 検査のために、ミツルさんに別の家屋へと連れられたことがあった。廃病院の前はそこで研究をしていたらしい。彼女はいくらかその家についての話をしてくれたし、車の中の景色はなんとなく覚えていたから、苦労はしたけれど目星をつけた。インターネットは本当に便利だ。電車とバスを乗り継いでいけば、近くまでは行けそう。シユさんに「あとで返します、ごめんなさい」とお金を借りてあたしは小さな旅に出た。


 結論から言うなら、無駄足だった。なんとか辿り着いたミツルさんの家はひどく荒らされていた。人の気配はない。それでも不敵な笑顔で出迎えてくれるんじゃないか、彼女ならいまのあたしをわかってくれるんじゃないかという淡い期待で、一室に入る。ドアを開いた瞬間、一斉におびただしい数の蝿が飛び散る。バイクが窓から突っ込んでいた。壊れた蓄音機が床に転がっていた。部屋に満ちた腐臭はかつてあたしが慣れ親しんだもので、その腐臭の先も慣れ親しんだ人だった。ミツルさんは死んでいた。
 あたしは腐りつつあった彼女の身体を外に運び出して、置いてあったシャベルで土を掘って、埋葬した。これ以上蝿に犯されるのは嫌だろうし、彼女のことを悼むのはあたしの仕事であるように思えた。
 朝日が登り始める頃に埋め終わって、あたしはミツルさんの家のシャワーを借りることにした。こんな腐臭のする人間は往来を歩けないからね。汚れきった泥と、いくらかの彼女の血肉が排水溝に吸い込まれていく。全部流してシャワールームから出て、衣服をミツルさんから借りる。洗面鏡には疲れ切ったシユさんが映っていた。鏡に向かって微笑むとシユさんも微笑んで、あたしはそれが無性に申し訳なくなってしまった。視線を外して手元を見る。ふと、アザが目に入った。首吊りの縄を模していて、輪の部分は目のマークのようにも見える。タトゥーに近いかな。だけどこれはシユさんの趣味ではないし.彼女についての記録にも書かれていない。うーんうーんと悩みながら指先でしるしに触れてみる。その時あたしは沼に沈んだ。
 強い思い入れ。同情。自己嫌悪。決意。言葉にするならそんな形だと思うけれど、底がなくて、ゆっくりと沈み込んでいく、深くて暗い泥の沼。やわらかくて掴みどころのない、奇妙なイメージがアザから伝わってきた。数分間は立ち尽くしていただろうか、白昼夢からハッと覚めてあたしは顔を上げる。そのときのあたしは驚いた顔をしていただろう。だけど鏡で同じように驚いてくれたのはシユさんではなくて、黒髪ショートの女性だ。眼鏡のフレームの感触は、鏡の外のあたしにも伝わっていた。


 これは後から知ることだけど、先に書いておこう。黒髪の彼女あたし三点さんてんリダ。新進気鋭の若手ミステリ作家。いくらか賞も取った期待のニューウェーブ……だったらしいけど、1年半ほど前に失踪している。あたしはなぜか彼女の姿かたちをそっくりそのまま写しとった。まるで鏡写しのようだった。私は



* * *



 『ネクロニカの技術を追った先で、私は途方に暮れる彼女と出会いました。ひどい有様でした。キーボードの前で脱水症状と栄養失調に苛まれ、あと数日遅ければ既にこの世にはいなかったでしょう』


『私は彼女の手を掴み、半ば無理やりに引き上げました。彼女は文章を書いていたようです。そしてある名前を出すシーンになるたびに……ファイルごと消去しています。書いて消してを繰り返していました。何度も、何度も』


『数日後、病室で目覚めた彼女は、ぽつりぽつりと話し始めました。孤独で固めていた堰が崩れるように』



* * *

 

「名前を呼ばれたんです」


「三点リダさんですか、って。あなたのファンなんです。昔サイン会に行ったんですよ。最近音沙汰がなくて心配してました。お元気ですか。私は逃げました」


「調べて、彼女の家に行きました。大家さんはすんなり通してくれました。私は本物じゃないのに。それでも彼女に近づきたかったんです」


「彼女の家にあった本を読みました。急行列車の難事件を解決する探偵の話。一晩限りの友人を庇う私立探偵の話。バラバラになった少女の謎を解き明かす古本屋の話。穢れの取り付いたマンションの話。東南アジアの革命とゲームの話。コインロッカーに棄てられた幼児の話。夢の中で不思議な国を旅する少女の話。恋した人のために自分のいのちも厭わなかった人魚の話」


「たくさん、たくさん。読んだ本の量だけが、私の存在を証明してくれるような気がして」


「でもダメでした。あはは。それならと思って自分でも文章を書いてみるけど、辿り着こうとしてみるけど、小説家にはなれなかった。私は彼女にはなれなくて、もとのカラダの持ち主にもなれなくて、自分だったはずのこころさえ分からなくなってしまった欠陥品」


「……だから、じゃないですけど。九條アゲハさん。協力させてください。貴方がやろうとしていることは分かりました。ここで何もしなかったら私は本当にただのガラクタです。それは嫌。彼女たちである私を、意味あるものにしたい」



* * *



『はい』


『御足労いただきありがとうございました』


……



* * *

 




 
もしもし、ワズカ?


終わったわ。そっちはどう?


夜11時ね。迎えに行く。


いいの、心配しないで。たまには会って話がしたいもの。最近は息もつけないほど忙しかったし。


……うん。考えないときはないよ、でも彼ら彼女らは私たちと違って個人で、それに向かってどうして欲しいと詰め寄るのは傲慢。なにより全部聞きたいって言ってくれた。それが答えなんだと思う。きっとね。